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『命と向き合うデザイン』 

 改めてモデル

モデルの読解 1 ・ 2 に戻ります。 「形式=関係=context」 「内容=要素・要因=content」 contextは日・英によって、 「文脈」・「web」と意味が異なります。 前者は、 「派生していくこと」に重きを置き、 後者は、 「編み合わさること」に重きが置かれます。 これは言語圏における、 考え方や作法の違いに繋がるように感じられます。 「文脈」とは、 本流があって、 それがどの様に支流に別れていくのかを、 主題としています。 一方、 「web」は、 縦横無尽に張り巡らされた 蜘蛛の巣のイメージです。 編み込まれていき、 その全体として何を表しているかを、 主題としています。 ここに、 content:自分自身で満たされていること、の、 概念がプロットされます。

『命と向き合うデザイン』 

 iPadを受けて

今は、 コンテンツがあって、 それを、 どんなコンテクストでつなぐかを考えています。 コンテンツが有している属性・機能のうち、 何を抽出し、どのように利用するのか、 コンテクストによって見え方が変わります。 以前より、 コンテンツとコンテクストの関係が 希薄になって来ています。 自由になって来ています。 以前は、 コンテンツとコンテクストの関係は、 常に、一対一でした。 クラウドを考えます。 ユビキタス: 問題はプラットフォームの整備でした。 クラウド: プラットフォームのベースはある、 または、あると見做せるようになりました。 問題はコンテンツの見せ方。 コンテクストの整備です。 お茶はお茶、飲めれば良い、 のでしょうか? テキストはテキスト、読めれば良い、 のでしょうか? 写真は写真、見られれば良い、 のでしょうか? コンテクストとは作法のようなものです。 コンテンツとコンテクストの関係性が 希薄になって来ている、今だから、 品格と美学が問われています。

『命と向き合うデザイン』 

 研ぎすます為に

モノ(3次元)のデザインを洗練していく際、 人間は、 3次元の情報を 2次元(網膜)に変換し、更に、 3次元(脳内)に戻してから、 そのバランスを見ることになります。 ここで、 3次元を2次元で表現する手法、 図面化を考えます。 2次元(図面)の情報を 2次元(網膜)のままで、 バランスを見ることができます。 図面化とは、 3次元の対象物の次元を下げることで、 そのバランスを美しくする機会を得る手法です。 しかし、 現実にできてくるモノは3次元です。 今度は、2次元の図面を見ながら、 それを脳内で3次元化し、 立体として把握しなければいけなくなります。 それを補足するためのモノが、 所謂、 モックアップモデル や ワーキングモデル です。 2次元と3次元を繰り返し見つめることで、 デザインは研ぎすまされていきます。 デザインは研ぎすまされる

『命と向き合うデザイン』 

 視覚とは

生物の性質の一つに 恒常性(Homeostasis)というものがあります。 生体の状態を、 環境因子の影響から守るために働く性質です。 これは、視覚にも働きます。 例えば、観察距離による大きさへの影響は、 恒常性によって、あまり反映されません。 つまり、 対象物の絶対的な寸法を、 視覚から得ることは非常に困難です。 それ意外にも、 例えば、広大な空間の中で、 大きな建造物を見る時、 開けた場所で夜空を見上げた時、 距離感が掴みにくくなることがあります。 それは、比較する対象がないために 発生することです。 比較する対象がある場合、 恒常性は全体のバランスを取って作用します。 そうしなければ、 相対的な寸法関係が狂ってしまうからです。 ある対象物を視覚によって知覚する時、 人間はその目の構造から、 3次元の対象物を、 まず、 2次元(網膜)に照射することで認識します。 そして、 その情報を、もう一度脳内で3次元化し、 対象物を立体として知覚します。 2次元化によって消失した奥行き情報は、 二つの眼球から得られる差異によって、 擬似的に再現されます。 眼球同士の距離は経験からわかります。 あとは、 対象物の大凡の大きさ、または、 対象物までの距離、 どちらかの情報があれば、 残りの一つが求まります。 これらの情報を変化させることで、 錯覚や立体視と呼ばれる現状が発生します。 視覚に依存した表現をするならば、 デザインをしていく上で、 バランスは非常に重要です。 人間は、バランス=比較でしか、 対象物を把握できないからです。

『命と向き合うデザイン』 

 次元の変換

「次元」 3次元のモノを 3次元で表現することは、 造形の辻褄が曖昧でもできます。 (e.g. モデルを削りながら形をつくる) しかし、 3次元のモノを 2次元で表現することは、 造形の辻褄が合っていなければできません。 (e.g. 図面を描く) 2次元のモノを 2次元で表現することは、 造形の辻褄が曖昧でもできます。 (e.g. 絵を描きながら形をつくる) しかし、 2次元のモノを 1次元で表現することは、 造形の辻褄が合っていなければできません。 (e.g. プログラムで絵を描く    プログラムを1次元と呼ぶならば) 高い次元のモノを、 低い次元で表現することは、 造形の辻褄が合っていなければできません。 それは、 モノを洗練していく上で、 非常に有効なことのように思えます。 モデルを削り出しながら、 スケッチを描きながら、 モノ(3次元)の形を決めていくときに、 一度、図面(2次元)化してみることで、 モノのバランスが見えてきます。 バランスは、 形態を決めていく際に、 非常に重要な要素です。 黄金比、などで語られる「比」とはつまり、 バランスのことです。 人間は、常に、 多かれ少なかれ、 この比較という行為によって、 対象物を捉えています。 比較とはつまり、 バランスを見ていることです。 人はバランスを見ている

『命と向き合うデザイン』 

 “ある展示より・3”

使い慣れている医療機器であるならば、 ベテランと呼ばれる医療従事者の方は、 安心して使うことができるはずです。 症例に対しては不安を感じても、 機器に対しては不安を感じない、 という状況が治療を行う上で、 ボーダーラインだと感じます。 様々な機器がある中で、 いまだ難しいのは人工心臓などの、 人工臓器でしょう。 症例に対しても不安を感じ、 機器に対しても不安を感じる。 人工臓器・人工心臓が有さなければいけないのは、 機能・性能・効能だけではなく、 それらを満たしたデザインとして、 安心を生み出す安全性が必要です。 そして、 安全・安心という考えは ロボットのデザインにも繋がります。

『命と向き合うデザイン』 

 “ある展示より・2”

携帯電話を使っているシーン、 パソコンを使っているシーン、 車に乗っているシーン、 想像がつきます。 注射器を使っているシーン、 注射器を使われるシーン、 聴診器を当てているシーン、 聴診器を当てられているシーン、 想像することはできます。 メスで切るシーン、 切られるシーン、 カテーテルを入れているシーン、 入れられているシーン、 医療従事者でなければ、 想像することは容易ではありません。 想像することが容易でないということは、 通常の状態ではない、 ということです。 つまり、 その状態が眼の前に広がれば、 不安に感じる可能性がある、 と言えると思います。 勿論、 医療従事者のみが目にするような場であるならば、 ハードルは下がります。 逆に言えば、 医療従事者が、 何に対して、不安を感じるか。 何に対して、 安全 と思えるか。 そのことを熟知する必要があります。

『命と向き合うデザイン』 

 “ある展示より・1”

普段は見えないはずのモノが見えている状況は、 不安を呼び起こします。 最も端的な例としては、 「人体の内部」=「体内」。 体の中は、普段見えてはいけない部分です。 それが見えていれば不安になります。 「怪我」や「死」というものが連想されるからです。 しかし、 芸術家の主観によって、 「表現したかったもの」であるならば、 それはArtにはなり得るのでしょう。 DesignとArtの差異が見えてきます。 Designは客観であり、 Artは主観です。 人を不安にさせることを「目的」としたDesignは 存在を成立し、得ません。 ただし、ある「目的」のために、 「手段」として不安にさせることは、 有り得ることです。 しかし、これは、問題が複雑に絡み合っています。 例えば、 体内を詳細に描き出した絵があるとして、 元々は芸術家が主観によって 「まだ誰も描いていなかったから描きたかった」、 「ただ、描きたいから描いたものだった」としても、 それが学術的価値を持つことは有り得ます。 医学の領域で有効に活用されたとするならば、 客観的価値を与えられたものとして、 Artの枠を越えていくと考えられます。 また、例えば、 上の例で挙げたような、 「体内が見えていることは不安に与える」という考えは、 「怪我」や「死」を穢れと捉えている、 言ってみれば日本という国の、 「ハレとケ」の文化を前提にした話です。 「葬」を忌み事としない文化においては、 それは不安には至りません。 そもそもハレとケの文化がある日本においても、 葬はまだその位置付けが曖昧なものです。 これらは、 命と向き合うデザインを考えていく上で、 大変核になるテーマです。 高齢のために、 口腔からの栄養摂取が難しくなった患者には、 腹部からチューブを挿入し、 純粋な栄養素を供給することになります。 体表に腔を設け、管を通すことは、 上述の内容と同様に、 見ているものに不安を与えることになるでしょう。 しかし、 その管は患者の生命を繋ぎ止めるためには、 非常に大切なモノであり、 デザインされるべきものです。 医療機器をデザインする場合、 特に、治療を行うための機器においては、 常にこのことを考えさせら

『命と向き合うデザイン』 

 モデルの読解・2

contentとは、 まさに「(形式に対しての)内容」と訳されます。 「趣旨・要旨・真意」など、 一般的な認識と大きなずれは感じられません。 この言葉の語源は 「contentus」というラテン語です。 意味は「satisfied」。 満足している、 満たされていることを表します。 そしてcontentusはもう一語 「continere」も語源の一部として持っています。 これは「contain」(含む)の語源でもあります。 「con-」+「teneo」=「altogether」+「to hold」と、 分割して考えることができ、 「全体として持ち続ける」ことを表している語です。 これはcontainの訳としては、 直接的でわかりやすいものです。 しかし、この意味とcontentをつなぐものは、 何かを考えなければいけません。 「充足している」ことと、 「全体として持ち続ける」ことの、 意味から見えてくることは、 「そのモノを、そのモノとして、  決定している事柄のみで、  それが出来上がっていること」、を、 表しています。 形而上的な表現になってきてしまい、 曖昧に見えますが、 context と比較して考えると見えやすくなります。

『命と向き合うデザイン』 

 モデルの読解

モデルとしての、 「形式=関係」 「内容=要素・要因」を、 少し、考えてみます。 これらはそれぞれ、 「関係=コンテクスト(context)」 「要素・要因=コンテンツ(content)」と 置き換えられると考えられます。 contextは文脈と訳されます。 「脈」とは『漢字源』(学習研究社/藤堂明保)によると、 「右側の字は、水流の細く別れて通じる様。  脈はそれを音符とし、  肉を加えた字で、  細く別れて通じる血管」とあります。 ここで今度は、 「context」を見てみます。 語源はラテン語の「contextus」とあります。 「con-」+「textus」=「together」+「to weave」となり、 textusを一緒に織り込んでいくことを 意味します。 textusとはtextの語源になった言葉で、 元々の意味は「woven cloth」、 そして「web」です。

『命と向き合うデザイン』 

 モデルの拡張

デザインでいうところのモデル、 所謂モックアップモデルの話をしましたが、 今、色々な分野で言われているモデルは、 もう少し異なります。 同じラテン語、 modus - modulusを基にしている、 moduleが近いように感じます。 その一般的な訳は、 「規格化された構成単位」です。 そこから、 「本質的な性質だけを抽出し、  単純化して表示すること」を、 モデル化と表現し、用いられています。 モデル化されたモノ、 所謂「モデル」は、 モデルである以上、 「形式」と「内容」を持つはずです。 「形式=関係」 「内容=要素・要因」 「関係」とは、 「要素・要因」同士の 関係性を明らかにしたものです。 また、 「要素・要因」とは、 「関係」の変化に依存せず、 「関係」を理解し得る最低限のものです。 これは「構造」になります。

『命と向き合うデザイン』 

 場所とモノ

modelとは何のためにあるものでしょうか。 見えないモノを見えるようにするための、 行為です。 見えなかったモノが見えるようになる。 新しいモノには、 そのための新しい場所が必要です。 「新しい場所=形式」に、 「新しいモノ=内容」が入って、 初めて無から有が成立します。 語源の意味は「形式」や「様式」など、 つまり、新しい場所です。 そこから生まれたmodelという言葉は、 単に模型をつくることではなく、 「新しい場所を用意し、  そこに新しいモノを迎え入れる行為」です。 新しい場所に新しいモノがある、 とは、つまり、 最も理想的な状態を指します。 これは「手本」となります。

『命と向き合うデザイン』 

 model

まず、モデルを考えます。 modelの語源は、 ラテン語のmodusであり、 「尺度・方法・様式・形式」などの意味です。 modusからmodulusが生まれ、 そこからmodelが生まれました。 modusはmodeという言葉も生まれました。 これは原意に近く 「方法・様式・形式・方式」などの意味になります。 modulusは英語として使われています。 英語では 「整数論の法・複素数の絶対値・率・係数」などの 数学用語として使われています。 modulusから生まれた言葉に、 moduleもあります。 「規格化された構成単位」という表現が一般的です。 ここからmodelの意味を考えます。 デザインのことばとしては、 実物大またはスケールを変換した模型のことと、 として知られています。 改めて語源を踏まえ、 そこにある意味を考えてみます。

『命と向き合うデザイン』 

 「x」を求める

未知数「x」 を求める、 つまり、 見えないモノを見えるようにするために、 スケッチをしたり、 モックアップモデルをつくったりします。 デザインとは、今、見えないモノを 見えるようにする行為 です。 その取っ掛かりであり、 最後まで繰り返される行為として、 この二つがあります。 「スケッチ」 「モックアップモデル」 この2つの言葉は、 デザイン以外の領域でも用いられることが多く、 意味も幅広いものになっています。

『命と向き合うデザイン』 

 未知数「x」

製品を考えていく上では、 当事者を考えなければいけません。 ステークホルダーとも言えます。 ステークホルダー=利害関係者です。 「利」は利益と便益で考えられます。 利益は見え易いですが、 便益は見えにくいものです。 ステークホルダーは、 一般的な製品は大きく分けて 「売り手」と「買い手」、 つまり、 「つくり手」と「つかい手」の2人です。 しかし、 医療機器では、 これに「使われる者」を加えた 3人のステークホルダーが存在します。 更に、 医療機器は、 生命に直接的に関わるものが多く、 専門的な要素・要因を含みます。 命と向き合うデザインを行うには、 これらを整理する手法が必要です。 しかし、上述したように、 製品設計、特に、医療機器では、 「見えないもの=未知数x」が、 多数存在します。

『命と向き合うデザイン』 

 BenefitとWants

便益(benefit)を生むことを考えることは、 ウォンツを考えることに繋がります。 このウォンツと便益は、 ともに数値化が困難で 且つ、効果もすぐには見えません。 一方、 ニーズは利益に繋がります。 こちらは数値化が可能で、 また、効果もすぐに見えてきます。 しかし、 本当に人を惹き付けることができるのは、 ウォンツを満たしたモノであり、 便益を考えている会社である、と 言われています。 デザインはウォンツを生み出すことだと書きました。 つまり、 経営の視点から見れば、 デザインとは便益を生むものです。

『命と向き合うデザイン』 

 「儲」とは

「儲」とは『漢字源』(学習研究社/藤堂明保)によると、 「人+音符諸(多くの物・蓄え)」で、 まさかの時に備えて、 蓄えておく跡継ぎの王子、という意味とのこと。 転じて、 「支出に備えてとっておく利益」の意味から、 広く商売の利益の意味になったそうです。 「支出に備えて」、 ということは、つまり、 使うために蓄えているということ。 会社も一緒です。 給料を支払うために、 次の開発を行うために、 などなど、 使うために利益(profit)を得ようとします。 ここで、もう一つの利益である便益が関係します。 便益(benefit)は 直接的にお金に換算することが難しいことです。 しかし、 便益を充実させることは、 より多くの利益を生む可能性を持っています。 そのために必要なことがあります。

『命と向き合うデザイン』 

 りえき

ステークホルダーには、 勿論、製造メーカーも入ります。 「ステークホルダー=利害関係者」 という点から考えると、 如何に儲けるかということが、 製造メーカーにとっての、 「利」になるように見えます。 「会社」というものは、 常に利益を得るために存在します。 利益(profit)を求めないのであれば、 それは「会社」として社会に存在する、 必要性がありません。 しかし、 「儲けること」と「利益(profit)を求めること」は、 必ずしもイコールではありません。 よく言われている、 「便益(benefit)としての利益を求めること」も、 儲けることにつながります。 「儲ける」という表現は、 動もすれば、 いやらしく聞こえるかも知れませんが、 元々の意味はそうでもありません。

『命と向き合うデザイン』 

  ステークホルダー

医療機器には三人に当事者がいる、と 言いましたが、 機器に関する利害を共有する、と考えると、 広い意味でのステークホルダーと言えます。 デザインを行う場合は常に、 ステークホルダーを残らず洗い出すことが 重要です。 特に製品設計おいては、 「ステークホルダー」=「購入者」になりがちです。 結果、 「購入者」と「使用者」が異なる場合、 または、 「購入者」=「使用者」であっても、 「使用者」とは別に「使用される者」がいるような場合に、 偏ったニーズを満たした製品になってしまいます。 (この場合、ウォンツは有り得ません) 特に医療機器は、その目的から、 「使用される者」が存在することが、 非常に多い機器です。 厳密にステークホルダーを残らず洗い出すと、 より多くの人が関係していることがわかります。 例えば、医療従事者という表現を用いているのは、 それが所謂「お医者さん」だけではないからです。 また、製造メーカーに至っては、 「人」を指し示す表現になっていないことから、 そこに関与する多くの人を含んでいます。

『命と向き合うデザイン』 

 二つの「安」

医療機器において、 親和性にいたるインターフェイスとは、 どのようなモノでしょうか。 キーワードは、 「安心」と「安全」の二つです。 「安全」に使えるモノは、 操作者に「安心」を与えます。 また、 外観そのものが「安心」を 与えることもできます。 ここでいう操作者は、 多くの場合、医療従事者ですが、 機器によっては患者が操作者になるモノもあります。 その場合は、 更に、「安全」に使えるようになっていること、 それによって「安心」して使えること、が 重要になります。 人間は非常によく学習する生物です。 その学習能力が、 「安心」を生むのですが、 同時にこれが 「安全」を脅かすことになります。

『命と向き合うデザイン』 

 医と患の界面

医療機器が、 医療従事者と患者の間を取り持つ、とは どういうことでしょうか。 よく、 インターフェイス・デザインという言葉を聞きます。 インターフェイス とは元々化学述語です。 最近では、機器の操作に関する部分全般を 指し示すことが多くなりましたが、 デザインでは本来の意味「界面」から、 「親和性」を意味する言葉に至ります。 医療機器には、 治療・診断・分析など、 様々に分類されますが、 いずれも患者をどこかに見据えています。 つまり、医療従事者と患者の間にあるものです。 その意味から医療機器は医療従事者と患者の インターフェイスになっていると言え、 「親和性」が非常に重要になります。

『命と向き合うデザイン』 

 心の置き場所

デザイナーは最前線には立てません。 直接、施術を行えるわけではないのです。 実際に医療機器を用いるのは、 いつも、医療従事者です。 人の命に関わることに、 心が動かされないのであれば、 命に関わるべきではない。 同時に 人の命に関わることに、 心が揺らぐのであれば、 命に関わるべきではない。 デザインも同様だと考えます。 命と如何に真摯に向き合うのか、 それがデザインする資格であると考えます。 デザイナーは、 直接施術に関われない代わりに、 デザインしたモノが直接関わります。 自分がデザインしたモノには、 「分身のようなもの」 「子供のようなもの」 という表現を用います。 デザインしたものを誰かから見られることは、 まるで 「自分の裸を見られているよう」に感じます。 「心中を見透かされているよう」に感じます。 デザインした製品が 施術に用いられるということは、 自分の分身が、 医療従事者と患者の間を取り持って、 闘っていることになるのです。

『命と向き合うデザイン』 

 三人の当事者

医療機器を考えるとき、 もし、デザイナー自身が患者でなければ、 デザイナーは、 1. 医療従事者ではなく、 2. 製造メーカーでもなく、 3. 患者でもありません。 しかし、つくり手の立場として 製品設計に関わることができます。 当事者でありつつ、 フリーハンドとして、 自由に動き回ることができます。 そして、 デザイナーが人間である限り、 ヒト用の医療機器に関しては、 患者になる可能性を持っています。 ここで、 もう一つ考えなければいけない立場があります。 それが、医療従事者、 本デザイン対象物のつかい手です。

『命と向き合うデザイン』 

 「儘」とは、つまり

「儘」とは『漢字源』(学習研究社/藤堂明保)によると、 「盡の上部は、  筆を持ち、その墨汁がたれて尽きる様を示している。  盡の字はその下に皿を添えた会意文字で、  手に持った筆の先から、  雫が皿の上にたれつく様を示す。  儘は「人+音符盡」で、  最後の一滴まで有り丈、の意」 つまり、我が儘とは、 半端な気持ちではできません。 半端な気持ちでは我が儘になりません。 最後の一滴まで自分自身でなければいけないのです。

『命と向き合うデザイン』 

 自分の思う儘に

あくまでもこれは、 「つかい手」として我が儘である必要があります。 「つくり手」と「つかい手」の分離が、 きちんと行えていない状態では、 自己満足=思い込み、にしかなりません。 つかい手としての我が儘とは、 一人称・二人称・三人称、 それぞれの視点から、 モノを見ることができるということです。 我が儘とは、 「自分だけが良ければ良い」ではありません。 「自分の思う儘にすること」です。 思う儘にする結果、 自分勝手にすることはあるでしょうし、 周囲の事情を顧みないこともあるでしょう。 根底にあるのはデザイナーの「思い」です。

『命と向き合うデザイン』 

 我が儘の必要性

デザインを行う上では、 自己を最高のつかい手として存在させることは、 必須の要件です。 これは、一歩間違えば自己満足を増長させます。 この「間違い」は、 「つくり手」のまま「つかい手」になることによって、 発生する問題です。 解決する肝は、 自分を如何に我が儘な「つかい手」にできるかです。 人間は自分勝手な生き物です。 自己中心的でない人はいません。 人間は自己中心的であったからこそ、 生物学的に弱い生体であるにも関わらず、 ここまで生きてくることができました。 自分を如何に、 我が儘、 意地悪で、 底意地の悪い、 厭らしい、 つかい手にできるか、がポイントです。 これが、 デザイナーが我が儘であるべき理由の一つです。

『命と向き合うデザイン』 

 最高の観測者

本論に戻ります。 こちらが途中になっていた内容です。 目的と手段がすり替わるとき、 デザインは単なる自己満足になります。 以前、「 自分がつくりたいからつくる 」という思いが、 重要ですと言いました。 でも、それは勿論、 自己満足を実現せよという意味ではありません。 手段が目的になってしまった時、 デザインは単なる、 自己満足=思い込み、になります。 デザインは、思い遣りです。 報われるための努力、 自己満足のためのデザインモドキ=思い込み、 これらの袋小路に至らないために必要なことは、 「つくり手としての自己」と、 「つかい手としての自己」を、 常に共生させながらデザインを行うことです。 つくり手としての自己=主観 つかい手としての自己=客観 一見すると「つかい手としての自己」も 主観に見えるかも知れません。 しかし、 自分がつくり手である時、 同時に、 自己をつかい手として存在させることができれば、 最高の観測者=客観にできるのです。

『命と向き合うデザイン』 

 心を動かす

慈しむ心につながるような 感動・感激・感謝の連鎖を生み出せるのは デザインです これは、心を動かすものです 人は 「喜」と「哀」で涙を流します 内面で処理しきれなくなった思いが 外面へと現れ出でる姿です 哀しみから目を背けず、 喜びを家族と分かち合える、 そんなデザインが必要です

『命と向き合うデザイン』 

 感の連鎖

慈しむ、 とはどのようにして 生まれる感情なのでしょう それは、 感動や感激を共にすることで、 互いに感謝する気持ちが生まれ、 そこから、 お互いを愛しいと思い、 慈しむ心につながるのではないでしょうか これは経験が必要です 家族というものは、 互いにその経験を共有できる場として、 本来あるべきなのではないでしょうか

『命と向き合うデザイン』 

 家族

生きている時間の、 どのタイミングでも良いから、 家族から、 愛されている、 と実感できた人は強いと思います 血の繋がりは問題ではなく また、 言葉にすることも問題ではなく 日本、古来の言葉に 愛、そのものはないそうです あるのは慈愛という概念 つまり、 愛してます、 と言われることが大切なのではなく、 自分の存在が 慈しまれている、 と思える時間があることが 重要なのだと思います これは、 自分自身が、 人のことを慈しむ心を持つことの大切さに 繋がります 何故、家族なのか 家族とは何なのか 何が家族なのか

『命と向き合うデザイン』 

 目指すマトリクス

2010年は 白銀の中で迎えました 「春・夏・秋・冬」 「生・老・病・死」 「吉・凶・悔・吝」 「喜・怒・哀・楽」 今年、 この行列の中を彷徨うデザインを 実学をもって捉えます