投稿

3月, 2010の投稿を表示しています

『命と向き合うデザイン』 

 “月”

イメージ
「月」 明るいなぁ、 と思って眺めていたら、 タイムリーな内容のメールを受信。 流石、 文字通り血を分けた姉弟。 見ているモノが一緒。 昔から月を見るのが好きでした。 神秘的な力がどうのこうの、とか、 そういうのは抜きにして、 ただ素直に綺麗だな、と。 成りたいものは太陽。 でも、 自分で自分は見られません。 見続けるなら綺麗な月を。 ふとしたときに、 気付くこと・感じること・思うこと。 近い人の存在は貴重です。 考え方が近い人は、 いるかも知れない。 でも、 その前段階。 もっと本能に近い部分で共有しあえる存在。 それは、 とてもとても貴重なのだと思います。

『命と向き合うデザイン』 

 4)Actionscript

イメージ
随分と本題(?)を離れてしまいました。 ということで、 4番目に出会った言語がActionscriptです。 出会いは Website の修正に伴うものです。 動くモノというのは、 やはり楽しいようです。 触っている言語が少ない私からすると、 差し詰め、 HTML+Lingoのような感覚で、 なんとなくつくっていたように感じます。 というより、 動くことがただ楽しい。 それ自体はLingoの時と大差ないのですが、 Flashのアニメーションには、 Adobe系のgraphicが見慣れている人からすれば、 ある種独特のタッチや、 動きに感じられるため、 その単なる見えの違いを 楽しんでいたように感じます。 この言語に関しては、 数年後に会社に入ってからの方が、 絡みが多かったです。 丁度Flashが、 国内のPCや携帯電話上にデフォルトで入る、 ということになり、 これまでとは違うcontentsをつくろう、 という流れの中で、 改めて触ることになります。 Web上で動かしていた時よりも、 更にinteractiveな使い方が要求されました。 押したらどうなる、とか、 押さないでおくとどうなる、とかとか。 今考えてみると、 動くモノはみんな大好き、 というcontextの中で、 これまた、 contentsの見えの違いをいじくっていただけ、 ということになります。 新しいモノ、 新しい技術。 その時々で楽しいですが、 もっと全体を俯瞰できる立場で、 contextを踏まえた上で、 提案を行っていかないと、 結局の処、 見え方が違うだけ、 ということになってしまいそうです。 それはそれで必要なことですが。

『命と向き合うデザイン』 

 “桜”

イメージ
そんな出会いと別れの季節。 日本では丁度、 桜の季節でもあります。 「桜」 桜という植物。 お花見という季節のイベントに組み込まれるほど、 親しまれている反面、 他の植物に比べ、大変強いため、 あまり良いお話を聞かないのも事実です。 どんどん植えていくのは いかがなモノかと思いますが、 今、生きている植物たちを、 愛でるのは良いのではと、思い、 楽しみにしている季節です。 年三回、 眺めたいタイミングがあります。 ・満開 ・葉桜(70%くらい) ・八重桜(種類が違いますが) 満開の晴れやかさは、 やはり気持ちが嬉しくなります。 能などの伝統芸能でも、 桜、特に、 その晴れやかさををテーマにしたモノは 多いと思います。 葉桜の良さは、 散っていく寂しさと、 次に訪れる夏の木々の鮮やかさを、 一足早く見られるような、 そんな嬉しさがあるところです。 種類は違いますが八重桜。 これは、私が名古屋にいた頃の経験からです。 お花見の季節を逸してしまい、 今年はもう華やかな姿は見られないな、 と思っていたとき、 街中にある公園の片隅で、 スッと咲いている一本の八重桜を見つけました。 開花の季節がずれているため、 見ることができたわけですが、 迎え入れてくれたような嬉しさを感じました。 それからは毎年、 桜の時期とはちょっと外れた時期に、 その八重桜を見に行っていました。 季節は巡りつつ、 でも、 同じことはなく、 常に変わり続ける。 でもでも、 同じ季節が巡ってくる。 当たり前のことですが、 その度に、 自分は成長できているのだろうか、 これからどのように成長すべきなのだろうか、と、 いつも、この季節に考えさせられます。 変わるべきことと、 変わってはいけないこと、 諦めるべきことと、 諦めてはいけないこと。 一年の計は元旦にあるべきですが、 私はいつも、 この年度の変わり目こそ、 身の引き締まる思いを感じます。

『命と向き合うデザイン』 

 “諦”

そんな話は またするとして、 兎にも角にも、 何かを終えられる皆様。 お疲れ様でした。 そして、 何かを始められる皆様。 がんばって行きましょう。 日本語には「諦める」という言葉は、 一つしかありませんが、 例えば英語では、 give upやresignなど、 色々あるようです。 「諦」 何かを諦めることで、 次に進めることがあります。 一方、 簡単に諦めてしまったら、 そこで終わってしまうこともあります。 この二つは、 同じ「諦める」にしても、 意味が異なります。 前者は、 本当に必要なこと、以外は諦めるということ。 抗いようがないことを受け入れるということ。 後者は、 本当に必要なことは、絶対に諦めないということ。 可能性を信じて挑み続けるということ。 言えることは、 どちらもしんどい、ということです。 しかし、 始まりと終わりには、 必ずこの「諦」という言葉を意識し、 生きていかなければいけない、と、 考えています。

『命と向き合うデザイン』 

 “出会いと別れ”

出会いと別れの季節です。 そう感じるのは、 3月終わり、 4月始まりの国々に特有なのでしょうか。 特に、日本では、 義務教育の徹底という、 プラットフォームのお陰で、 この印象が強いのだと思われます。 大人になると、 出会いと別れ、よりも、 年度末=締めの季節。 という意識が強くなります。 今年度の自分の実績はどのくらいだったのか。 などを意識しなければいけなくなります。 勿論、 職場のメンバーの入れ替わりもありますから、 出会いと別れもありますが、 小さい頃ほど、 一斉に、大々的に行われることは、 極めて少なくなります。 最近では、 コミュニケーションツールの充実から、 別れているけど、 そんなに寂しくない、 という状況も、まま聞かれます。 携帯電話の電話帳は、 基本的に増えていくモノ。 会わなくなっても別に消す必要はない。 何かで連絡とりたくなったら必要だし。 どんどんどんどん膨らむ人間関係。 更にそれぞれのネットワークがリンクして、 そのwebによって、世界は覆われています。 勿論、 それは当たり前のことで、 インターネットや携帯電話などが生まれる前から、 そうだったわけですが、 「電話帳」「○○」「××」と contentsが多様に視覚化され、 contextとの関係性が希薄になることで、 以前よりも、 その傾向が強くなったように感じます。

『命と向き合うデザイン』 

 3つの柱

イメージ
勝手な解釈を続けます。 syntax:統語論と semantics:意味論を、 semiotics:記号論の分野として考える場合、 三つ目の論が必要です。 二つでは、 モノは支えることができません。 もう一本の脚は、 pragmatics:語用論です。 SYNTAX SEMANTICS PRAGMATICS この三論は、 何れも関係論になります。 統語論:記号 × 記号 意味論:記号 × 指示物 or それによる反応 語用論:記号 or 言語的表現 × 使用者 統語論(syntax)は、 「記号」と「記号」の間にある形式的な関係。 意味論(semantics)は、 「記号」と記号が「指示したモノ」、または、 「記号」と記号が「引き起こした反応」との関係。 語用論(pragmatics)は、 「記号」と「使用者」、または、 「言語的表現」と「使用者」の関係。 プログラムなどで語られる言葉に、 syntaxとsemanticsしかないのは、 pragmaticsが使用者との関係を 言及している分野だからでしょうか。 しかし、 三論をもって確立している論理体系が、 一つの分野を欠いて、 成り立つことはあり得るのでしょうか。

『命と向き合うデザイン』 

 “記憶のラベル”

言葉、 というか音楽。 長いこと楽器をやっていたからなのでしょうか、 歌詞のある曲を聴いても、 最初に耳が気に入るのは、 その曲のメロディーライン。 でも、 不思議なことが。 何気なく聴きたくなって聴く曲の歌詞が、 意外なほど、 今の自分の心境を表していることがあります。 酷い時(?)など、 以前、その曲を聴いていた時には、 歌詞の意味は全く理解していなかったのに、 (注:歌詞は日本語です) 何気なく聴きたくなって聴いてみると、 「あ、今の気持ちじゃん、これ!」 何故なのでしょう。 メロディーラインが、 歌詞の意味を そこまで克明に表現しているのでしょうか。 認識もされていなかった歌詞が、 一種の聴覚刺激となり、 qualiaとなって、 脳内に残っていたのでしょうか。 それが、 歌詞の内容と同様の体験を、 実際に経験することで、 意識体験であるqualiaにつながり、 その生成発端である曲が、 引用された、 ということなのでしょうか。 ただ、 脳の問題、 と片付けてしまうよりも、 もうちょっと外で解決させたいと考えます。

『命と向き合うデザイン』 

 “つくる”

もくもくとつくり続ける。 つくることは楽しい。 しかし、 時間に追われていると思うと、 ドキドキしてくる。 (違う楽しさ? いや、この楽しさはいらない!) うぉ、紙の厚さが! ぬぉ、設けていたバッファが!! ふぐぁ、スチノリ乾かないし!!! などなど、 自分との戦いなのか、 何との戦いなのか。 チェックを受けて、 次はココを綺麗にしてやる! と、チェックと関係ないところで、 決意を固めてみたりする。 「使えるモデル」をちゃんとつくろう。 不完全燃焼この上ない!!

『命と向き合うデザイン』 

 “呼吸”

私たちは、 呼吸をしながら、 話をします。 人間が、 自然な機構を用いて、 話し言葉を使用するためには、 呼吸が不可欠です。 私にとって気の許せる仲間とは、 多くのことを音声かしなくとも、 コミュニケーションがとれる人たちです。 つまり、 呼吸の仕方・役割も変わるのだと思います。 それぞれの方法で、 お互いを思いやる仲間。 勿論、 伝わりにくい時もあるし、 伝わらない時もあります。 それでも続いていく関係。 digitalではない、 だからと言って、 analogという表現もちょっと違うような、 そんな関係性が、 人と人との間にはあるのだと思います。 人とペットの関係、 人間と動物の関係、 人間とロボットの関係、 友達関係? 主従関係? ・・・ これらも、きっと、 まだまだ考えるべき余地が、 多分に残っているのでしょう。

『命と向き合うデザイン』 

 “仲間”

友人の結婚式に出席するため、 電車に揺られて行ってきました。 結婚式、 披露宴、 披露パーティ、 三次会、と、 かなり盛り沢山でした。 仲間 いつもだったら、 年に一度、 または2年に一度くらいしか、 会えないはずの「仲間」に会い、 普段とは違う速度で 呼吸をした気がします。 決して、 のんびりしていたわけではないのですが、 ゆっくりと呼吸していたように感じます。 人それぞれ、 人との距離を測る方法には、 いくつかあります。 よく聞くかも知れませんが、 私の場合は、 「一緒にいるとき、  話をしていなくても、  平気な人たち」、 というものがあります。 勿論、 平気だと思っているのは私だけ、 という場合もあるとは思うのですが、 例えば、 必要なモノを敢えて口にしなくても、 ちゃんとそれであることがわかる、 とか、 馴れ合いという意味ではなく、 頼り・頼られることが、 自然にできる、 とかとか。 私は、今、 記号論として、 言葉などについて書いています。 non-verbal communicationなどという、 簡単な言葉で表されるわけではない、 人と人との関係をいつか言葉にできればと思います。

『命と向き合うデザイン』 

 記号論

前回ちょっと出てきた言葉、syntax。 syntaxとsemantics。 何も考えずに使い続けようとしましたが、 やっぱり無理なので、 それぞれについて思い出しつつ、 考えてみます。 syntax:統語論 semantics:意味論 という意味があるので、 そのままに受け止めれば良いのでしょうが、 統語論なんて言葉、 なかなかお目にかかりません。 それぞれ、広辞苑を参照してみると、 統語論:記号の間の形式的な関係を研究 意味論:語や句・文などの表す意味を研究 記号や語・文などの文字現れているとおり、 この二つの論の上には もう一つ大きな概念構造があります。 記号論 以前、このブログでも、 Ferdinand de Saussureのところでちょっと出ました。 幅広く用いられている言葉であり、 一口に記号論と言っても、 それぞれの立場によって、 その内容は異なるようです。 その中でも、今回の内容は、 一般的な言われ方を用いるなら、 倫理実証主義の立場からの記号論、 という捉え方が比較的近いのかも知れません。 その場合、 記号論を構成する論は、 統語論と意味論の他に、語用論、というものがあります。 更に、 もうちょっと幅広く考えるならば、 音韻論、そして、 形態論というものも含まれてきます。

『命と向き合うデザイン』 

 “羊が3匹”

イメージ
ちょっと気になった漢字があったので。 そもそも、 「美」という漢字は、 なぜ、 「美しい」という意味なのでしょう。 美 例に倣って、 『漢字源』(学習研究社/藤堂明保)によると、 「美」とは、 「会意。 「羊+大」で、 形の良い大きな羊を表す。 微妙で繊細な美しさ。」 とのこと。 義・善・祥などに、 この美という文字が用いられるのは、 周人が羊を最も大切な家畜としたため、 とのこと。 何を美しいと感じ取るのか、には、 文化の違いも関係しますので、 そこは認めることにします。 美の意味がわかったところで、 冒頭で述べた、 「ちょっと気になった漢字」ですが、 凄い単語があります。 羊羹 そう、皆さんご存じ「ようかん」。 小豆を煮て固めた甘い和菓子です。 この単語、なんと、 羊さんが3匹も! 周人にとっては、 そんなに凄いモノだったのでしょうか、 羊羹は。 と考えていたら、 そもそも、羊って「匹」? 「羊が一匹、羊が二匹・・・ぐぅ。。。」で お馴染みですが、 なんとなく、サイズ的に、 「頭」のような気がしてきます。 しかし、 調べてみてびっくり。 「頭」:牛の頭を見て数えた 「匹」:馬の尻を見て数えた 対象物に依存していたわけではなく、 頭なのかお尻なのかで分かれていたなんて。 ということから、 どちらでも良いようです。 羊羹が何故3匹の羊さんなのかは、 色々なWebsiteに載っているようです。 諸説あるようですが、 何れも元々は羊を使ったお料理だったようです。 オチも何もありませんが、 羊羹という漢字にびっくりという件でした。

『命と向き合うデザイン』 

 “友情”

イメージ
今から8年ほど前に、ある課題が出されました。 「A2ケント紙(枚数制限無し)を用いて、 『友情』を表現しなさい。 ただし、切断は不可とする。」 この課題に対して、 私が出した回答には、 武者小路実篤の「友情」を背景とし、 以下の文章を、 コンセプトとして添えました。 やっぱり、 何かあったのか知らん、 としか思えない文ですが。 _______ 「友情」 もう一つの、帰省。それが許されるのであるならば、それは、友の元へであろう。すべての否定と、すべての肯定が同時に存在する場所。それが友であり、それを許しているのが友情である。優しくないのに、優しい。甘やかさないが、甘やかす。厳しくないが、厳しい・・・そういったモノのすべてがそこにはある。私、という存在を裏にして、それを目の前に見せつけられたようなもの。決してそれは、正反対の存在という意味ではない。ある時それは、自分の真理と逆を行くかも知れないが、自分の中の真と、その真が重なった時、それは何よりも強大な自信と、誇りとなって、大きな力を与えられる。 しかし、あろうことか、人間である。我々は。その不完全さは目を見張るばかりである。裏切り、妬み、嫉み・・・そんなものの集まっている場所ともいえる。友情をはるのは容易ではない。そこには何もないからだ。見事に何もない。あるのはただ、友情のみ。自らの犯した、過ちにより友情を保てなくなることなど、そうそう、珍しいものではない。だが、もし、その過ちを犯して尚、保つことができた友情があったなら、それは、まさに、すべての否定と肯定の共存する場所として、最高の輝きを持つのではないだろうか。いつかではなく、今総てを曝すことができる関係。それに対して価値など、考えるだけ無駄である。 _______ 私の中での、 友情に対する最初の思考だったのかも知れません。

『命と向き合うデザイン』 

 “友とは”

イメージ
ふとした処で、 同じことを考えていたことに気付く。 生業が違っていても、 立場が違っていても。 そんなことには関係なく、 ふとした時に、 互いの考えが重なる。 ただ純粋に、 そのことに無類の喜びを覚え、 ただ純粋に、 そのことを当然のことと誇れる。 師のそんな姿を拝見し、 今、自分が感じている、この価値も、 数年後に、また考えることができるならば、 違う形になっているのか知れない、 と感じ入りました。

『命と向き合うデザイン』 

 機器の言葉

プログラムを組む時に考えること。 頭の中にある「つくりたいモノ」を、 機器が理解できる言葉に、 どう変換するか。 如何せん、素人な私。 脳内ではまだ、 「つくりたいモノ」と「機器が理解できる言葉」が 直接はつながっていません。 日本語で物事を考えるように、 機器が理解できる言葉で、 つくりたいモノを考えられるようになれば、 時間と手間が省けるだけでなく、 より、 機器が理解しやすい言葉で、 記述することができるようになると、 考えられます。 とは言っても、 プログラムは、 syntaxをまもって記述すれば、 ちゃんとその通り動きます。 では、なぜ、機器が理解しやすい言葉、 とか、そんな考えが必要なのでしょうか。 人間の場合、 同じ国の中でも、 地方によって言葉は異なります。 それがたとえ、 ほんの些細な違いであっても、 現地の人からすれば、 違和感として残ります。 そのくらい言葉とは繊細なモノです。 それは、きっと、 機器にとっても同じはず。 強引な言い方をすれば、 プログラムにおけるフローとは、 機器の考えの流れと言えます。 機器、と言っているので イメージがわきにくいかもしれませんが、 機器をロボットと呼び変えてみると、 どうでしょうか。 ・・・どうなんでしょうか?

『命と向き合うデザイン』 

 3)二段階翻訳

遺伝的アルゴリズムを使って、 カフェ内装の、 最適レイアウトを発見するプログラムを C言語で構築する。 というミッション(?)。 当時、C言語に関して、 基本的な知識もなかった私は、 勿論、ダイレクトにプログラムなど、 書けません。 グループワークという利点を活かし(?)、 こんなやりとりが生まれました。 A : こういうのがあると面白いと思うんだけど、どうかな? B : こんな感じ? A : そうそう♪ あ、じゃぁ、こういうことってできるの? B : う〜ん、それは難しいなぁ。 A : じゃぁ、こんな風にするのは? B : それならできそう! 二段階翻訳です。 AさんとBさんで、 まず、「つくりたいモノ」を考えます。 Aさんは、 「つくりたいモノ」を、 人間が理解できる言葉にします。 そして、 Bさんは、 人間が理解できる言葉の内容を、 機器が理解できる言葉にします。 なんとなく、 うまい具合に、そんな様に、 役割が分かれた結果、 予想以上に速やかに作業が進みました。 この両者、 どっちが偉いとか、 どっちが凄いとかという分けは 勿論ありません。 Aさんから見たBさんは、 「なんでそんな機器の言葉に翻訳できるの?」 となりますし、 Bさんから見たAさんは、 「なんでそんな人間の言葉に翻訳できるの?」 となります。 前者は プログラムを記述することができる能力、 後者は つくりたいモノを様々な角度から見られる能力。 何かをつくるためには、 両方ともあった方が、多分便利です。 前者は必須ですが、 後者はなくてもなんとかなります。 ただ、 デザインにおいては、 後者「も」必須事項です。

『命と向き合うデザイン』 

 3)C -> GA

単位互換制度と、 C言語の関係について。 受講した単位互換制度適応の講義は、 「プログラムに関するもの」でした。 といっても、 「プログラムの書き方」、 という基本的なものではなく、 「プログラムを使って○○をつくる」、 って・・・プログラムできることは前提なのね。 授業でお目にかかっていたとは言っても、 それで何かがつくれるかと言えば話が違います。 そんな中、たまたま、 一緒に受講して、 一緒のグループになった、 違う学校の生徒さんの専門は、 なんと、C言語、に近いものだった、 のか、やったことがあるレベルが 私よりも多少高かったのか、 今となっては不明ですが。 まぁ、やってみようじゃないかと言うことになり、 ここで問題は、「何を」つくるか。 何ができるかもわからないのに、 考えられるのか? という疑問や不安はありつつも、 何となくでも話は進み、 決まったお題は、 「遺伝的アルゴリズムを用いた  カフェ内部レイアウトの  最適解導出プログラムの作成」 というものでした。 ほどよくプログラム的な雰囲気と、 何となくデザイン的な響きが入り混じった感じの、 このタイトル。 知っている人からすれば一発だよね、 と思いながらも、 なんか面白いモノができないか知らん、と考え、 いざ、突き進むことに。

『命と向き合うデザイン』 

 3)C

ということで(?) 、 3番目にお目にかかったのが 所謂、C言語でした。 やっとかよ、という感じですが・・・。 更に、この言語に関しては、 世の中に数多の文章がありますので、 専門的なことは皆様にお任せし、 全く違う視点から見てみます。 そもそも、 大学の授業でも取り上げられていたのですが、 (プロダクト・グラフィック・建築・音楽・プログラム・・・  ウチは何でもやりましたから) 私が「出会い」だと感じたのは、 そういったプログラムに関する授業とは 違うところにありました。 単位互換制度 違う大学同士でも、 上の人が良いよって言ってくれたら、 他の大学で受講した内容も自分の単位にできる制度、 なんて言って良いのかわかりませんが、 なんとなくそういうモノです。よね。 師がある授業に関して、 この互換制度の話を進めてくださり、 実際にその恩恵にあずかりました。

『命と向き合うデザイン』 

 “若葉の匂い”

ちょっといつもとは違うお話を。 久しぶりに屋外を歩きました。 といっても、 閉じ籠って作業しているわけではありません。 (それに近いとは思いますが・・・) 普段は自転車を使用しているため、 それとの対比での歩行による移動という意味で。 自転車で移動するときは 比較的スピードが出ているため、 あまり感じなかったのですが、 今日、駅から大学までの道を歩いているとき、 ふと・・・ あ、若葉の匂い♪ 突然寒くなったり、 ビックリするくらい暖かくなったりと、 春は何処までいらしているのか知らん? と思う今日この頃。 気温差で既に夜露に濡れていた若葉の匂いから、 春を感じられたこと。 ちょっと嬉しかった。 時間が流れているということで、 勿論、喜んでばかりなんていられないのですが、 それでも、 やっぱり、 春の訪れ、 季節の変わり目を 感じられることは嬉しい。 まだ日本人以外になったことがないし、 日本以外で数年間暮らしたこともないので、 「日本人ならでは」とか、 「日本ならでは」、 なんてことは言えませんが、 少なくとも、 そんなことを感じられる人間に、 育てていただいたことに感謝。

『命と向き合うデザイン』 

 “最も縁遠い存在”

デザイナーにとって大切なことは、 「気付けること」 そして、気付いたことに対して 「動けること」です。 気付くためには、 常にアンテナを立てていなければいけません。 気付けることが第一歩だからです。 しかし、一番問題なのは、 気付いていながら動かない人間 つまり、 「事勿れ主義」の人間になってしまうことです。 事勿れ主義 「事勿れ主義」では 絶対にデザイナーにはなれません。 「自分には直接関係がない」、 「自分には他にやらなければいけないことがある」、 「自分には・・・」、 「自分には・・・」、 これらは、 我が儘 にもなりきれない、 安っぽい自分大好きっ子の自己防衛です。 デザイナーには最も縁遠い存在だと思います。 「出されたものは全て食べる」 と、 同じ原理です。 見えたモノは全て食べなければ、 力にはなりません。 見えた時点・気付けた時点で、 デザイナーとしての大切な一歩を ちゃんと歩んでいるのです。 それを自ら放棄する人間には、 デザインに関わる資格がありません。 君子危うきに近寄らず、とは違います。 一般人が危うきに近寄らないのは、 単に自分の能力に自信がなく、 且つ、 それでも良い恰好をしたいという妄想に 他なりません。 安っぽい賢さに固執する人間が陥る 最大の失敗です。 実行するのは難しい。 でも、今、 そのことを、 肌で感じ、 考えさせられる場所に、 居させてもらっています。

『命と向き合うデザイン』 

 tg - html

typographyとは、 「描いて印象づけること」から、 「活字を配置することで表現する技法」へと、 意味が変化した言葉です。 その本来の目的は明確でした。 印刷物における、 可読性・視認性・誘目性の向上。 他者(社)よりも、 目を惹くことができる・ わかり易く示せる・ というか、単純に見易い、 ということは、 他者(社)よりも売れる。 それはつまり、 デザインが 経済界へ参入する・参入できることを示す、 最も端的で明確な技法でした。 デザイン -> 経済界 そして、やがて、 プロパガンダを掲載したポスターに適応されることで、 政界への参入の可能性が生まれました。 デザイン -> 政界 typographyの歴史は、 専門の方々にお任せするとして、 ここで考えるのは、 HTMLについてです。 HTMLは、 デジタル社会における文章に対して、 typographyとwebという要素・要因を加えることで、 疑似空間軸を発生・時間軸変化、 させることができました。

『命と向き合うデザイン』 

 typography

イメージ
typographyとは、 type + -graphyです。 typeの語源はimpressionです。 impressとはin + presserでto press。 一方、 -graphyはwitingを語源に持ち、 writeの語源にはdrawがあります。 つまり、 「描いて印象づけること」、 それがtypographyです。 graphic design全般を表現しているように思われますが、 graphic designでは、 この言語は特に、 「活字を配置することで表現する技法」、 を表す言葉として用いられます。 それは、 typeの持つ言葉の意味にあります。 文章を作成するための機器を、 一般的にtypewriterと呼びました。 これは、 type(to press:押して)して、 write(書く)するという意味です。 typewriter以前から、 活字を描くためには、 typeすることが必要でした。 (活版印刷しかり) ここから、 typeの意味として、 「活字」が含まれるようになりました。 typographyが生まれたのは、 まさにこの活版印刷の歴史と 時を同じくしています。

『命と向き合うデザイン』 

 文章を越えて

イメージ
HTML は、文章に対し、 hypertextとして、 構成をlineからwebへ、 markup languageとして、 表現をtextからtypographyへと、 変化させました。 文章の内容を理解するためには、 「読む」という行為が必須です。 しかし、 HTMLは この二つの概念によって、 当初の目的 から飛躍し、 文章は文章でありながら、 文章を越える存在、 今、一般的に認識されているように、 表現系としての価値を獲得しました。 web化されることで、 線から面へと表現が広がりますが、 認識する対象が文字列、 つまり文章である限り、 内容を理解するためには、 線形に認識するしかありませんでした。 しかし、ここに、 typographyとしての要素が加わる事で、 「読まなくても理解できる」モノ が生まれました。 typographyとは、 graphic designの大きな分野の一つです。

『命と向き合うデザイン』 

 “絆”

イメージ
ふとした事から、 昔のportfolioを繙く事に。 そして、 出て来た文章にビックリ。 _______ 「絆」 恋人って、なんでしょう? 好きになるって、なんでしょう? 繋ぎ止めながら、束縛し、 打ち砕かれながらも、何度でも蘇る。 一度折れた骨が強くなるように、 何度でも、 何度でも。 意志を具現化して、 ずっとずっと繋いでいてください。 その「絆」という鍵で。 _______ 1999年頃に行われた、 「学生による額装コンペ」に出展した際の、 コンセプト説明文。 「この頃何があったのか知らん?」 と、考えさせられますが、 昔書いた言葉を読み直すのは、 ちょっとしたタイムスリップ感を味わえて面白い。 特に私の場合は、 積極的にtextのみを残した事があまりなく、 常に作品と共にある事が多いため、 「スケッチ」と「言葉」という、 今自分が記し続けているテーマそのものを、 自分が実演している感覚で面白いです。 よく見てみるとこの文章、 今から10年以上前に書いたもの。 作品をportfolioとして残しておく事の大切さを、 しみじみと感じます。 PORTFOLIO

『命と向き合うデザイン』 

 2)HTML

イメージ
先日も書いたように、 HTMLは、 HyperText Markup Languageというくらいですから、 markup languageに分類されます。 markup language 本来の目的は、 テキストの見えを指定する言語、との事。 つまり、 昔つくった 「グラフィックを多用する」、 というのは、元々の想定としては、 イレギュラーなことだったわけです。 何故なら、 HTMLは当初、 「互いの研究をどうやって共有するか」、ということを 実現するためにつくられたツールだったからです。 言い換えれば、 研究(テキストと少しの画像)というcontents(内容)を HTMLというcontext(形式)で表現する事により、 contextが理解できる人同士では、 contentsを共有できるということです。 ここにたまたま、 爆発的なネットワークの広がりが重なり、 HTMLという形式が、 インターネットでのlangueになってしまいました。 元々、仲間内の言葉だったもの(parole)が、 一気に広まってしまったため、 当初のHTMLは規則性が緩く、 レイアウトなどを細かく・明確に 指示するものではありませんでした。 langueとして確立するための 時間的余裕がなかったと言えます。 そんなわけで、"markup"の方は良いとして、 "hypertext"の方はなんでしょう。 hypertext こちらは元々、 文章のデータ構造を表した言葉です。 cross-referenceという概念の元に、 テキストの表現を 線形から変化させました。 hyperlinkを使ってテキストを結びつける事で、 linearだった文章というものを、 web化しました。 この二つの構造が組み合わされたものが、 HTMLの根幹です。

『命と向き合うデザイン』 

 2)HTML、との出会い

十数年前の夏休み、 Gマークの学生バイトから帰って来て、 最初に受信した師からのメールのタイトル。 今でも覚えています。 『激怒』 ???なぜ??? ではないですね。 学部のWebサイトをつくるはずだった子が、 結局つくれなかったらしいことを、 バイト中に風の噂で聞いてしまっていた私。 (そんなの、噂だ!と思っていたかった私) メールの内容は、 「なぜまだ学部のサイトができていないのか!」、 とのこと。 「了解しました」と即、返信をし・・・。 ?何?何?どうすれば良いの? ?何やれば良いの? ?どっから手、つけるの? ?っていうか、Webサイトつくるって・・・、 ?どういう意味よ? みたいな混乱は一瞬のことで 「兎に角つくる!」に頭を切り替え、 書籍と人とWebと気合いと体力に縋り、 なんとか形をつくったことを覚えています。 (当時助けてくださった皆様、ありがとうございました) そんな学部のサイトも数年前に刷新され、 今ではもうその頃の痕跡は全く残っていません。 当時としては珍しいくらい、 アイコンや写真といったグラフィックを多用し、 わかり易いインターフェイスだったと思います。 (「考え」ていないから「思う」のではなく、  記憶に頼っているという意味での「思う」) そんなHTMLを考えてみます。

『命と向き合うデザイン』 

 2)HTML、の前に

HTMLは、 プログラムとしての言語というよりも、 一般的な視点から言えば、 markup languageというだけあって、 まさに、 表現手段としてのプログラム、 という認識が強いのではないでしょうか。 私が大学に入った頃、 丁度、 インターネットだ、電子メールだ、 と世の中が活気づいてきました。 私が入学した大学は、 師の意向により、幸いにも、 「試験に通ればアカウントがもらえる」 という環境でした。                                        その試験とは、 「紙に書かれた用語の説明をせよ」と言うもの。 今でも覚えています。 私に与えられた用語は「アカウント」。 今から十数年前、 その言葉に英単語以上の意味は、 考えられませんでした。 勿論インターネットでも調べられません。 (その権利を得るための試験ですから) 英和辞書を使って調べた答えを書いて 持っていきました。 当然、不合格。 当時の辞書に、インターネットでいう処の 「アカウント」の意味が 載っているわけがありませんでした。 そんな試験を受けて、 多分、アカウントをもらったのは、 学年の中で最初の方だったと思います。 という事は、 学部の中で最初の方だったという事で、 それがまた大変の元でした。 周りの人間で、 インターネットの事を知っていたのは、 確か3人程度でした。 兎に角わからないことだらけ。 アカウントやら、 パスワードやら、 なんか色々な数字の羅列やらが書かれた紙をもらい、 それっぽいものが入りそうな場所を見つけ、 兎に角入れてみる。 そんなことでつながれば苦労はないわけで、 当時のPowerBook520cは なかなか言う事を聞いてくれませんでした。 (じゃなくて、私が使えていませんでした) それでも、 基本的にそういうモノが好きなので、 というか大好きなので、 繰り返しトライしているうちになんとか繋がり、 インターネットというものに触れました。 そんな人間に 「学部のWebサイトが必要!」という指示が 舞い降りてきました。 HTMLとの出会いです。 HTMLとの出会い

『命と向き合うデザイン』 

 1)Lingo

イメージ
引き続き、 プログラムとしての言語です。 Lingoは私にとって、 「つくれるものならつくってみろ」的な、 課題で作成することになった、 プレゼンテーションに関係している言語です。 この言語、 きっと大半の方がご存じないと思います。 昔、Directorというソフトウェアがありました。 最新版が2008年に出ているので、 昔、というわけではないようですが、 使っているという話題を最近は聞きません。 現在はAdobe社の製品ですが、 それ以前はMacromediaがつくっていました。 Flashよりも遥かに昔です。 歴史を語るような知識はないので、 自分から見えていた世界を思い起こしてみます。 私が使い始めたのは十数年前、 バージョン4の頃です。 本来の目的は、 ゲームやアニメーションを 作成するためのソフトウェアです。 私は、プレゼンテーション用コンテンツを 作成していました。 タイムラインに沿ってオブジェクトを配置し、 再生を押せば配置したオブジェクトが表示される、 というのが基本的な使い方です。 フレーム数を決めれば、 マシンに異常な負荷がかからない限り、 時間通りのアニメーションを作成できます。 プレゼンテーション用に作成するためには、 タイミングなどをコントロールする必要があります。 また、 コントロールした際のレスポンスなども、 表現したくなります。 Directorの中でそういった細かいこと(?)を、 受け持っていたのがLingoという言語です。 当時は、 フレームを停止させたり、 操作者の行為に追従させたり、 というアクションは、 全てLingoを記述する事で、 コントロールしていました。 数年経って、 たまたま新しいバージョンを触る機会があり、 使ってみてビックリ。 書かなくてもできるじゃん! という具合に、 インターフェイスが出来上がっていました。 まぁ、そりゃそうですよね。 このマニアックな言語が 私が最初に触ったプログラムに関する言語です。 考えてみると、 プログラムに関する言語の、その全てが、 何かを表現するために使われているように 思います。 プレゼンテーション、 と言って良いのかわかりませんが、

『命と向き合うデザイン』 

 プログラムとしての言語

iPhoneアプリを開発するチャンスをもらっています。 見よう見まねなため、 中々思うように進みません。 でも、やっぱり楽しい。 というか面白い。 「不思議」に近い感覚かもしれません。 見よう見まねでこれまでに触って来たプログラム、 ちょっと挙げて見ました。 1)Lingo 2)HTML 3)C 4)Actionscript 5)Object-C(の端っこ) とかとか。 他にも色々ありそうですが、 基本的に、 必然的な切っ掛け、 があって触ることが多いため、 順序立ってはいません。 ・・・っていうか、順序メチャクチャ。 それぞれの切っ掛けを思い出してみると、 自分の中でのプログラムというものを 見つめ直すことができました。 ・・・と言いますか、 改めて考えてみると、 切っ掛けには全て、 師が絡んでいることがわかり、 ちょっとびっくり・・・。 それぞれの切っ掛けは明確です。 1)Lingoを使ってプレゼンテーションを  つくれるものならつくってみろと言われた。  (基本負けず嫌いなので勿論制作) 2)当時所属していた学部のWebサイトをつくれ、  という指示が、  当時担当するはずだったスタッフがブッチしたために、  突如降って来た(お陰で勉強できた)。 3)単位互換制度のスタート。  互換する相手はプログラマーの卵だった。  ということでお勉強。 4)2でつくったWebサイトを動かすことになった。  というかFlashが日本に上陸した。 5)アプリ制作!  というか、Distributionまで勉強させてもらっています。 必然的な切っ掛け、とはつまり、 明確な目的があって、 目標があったということになります。 それが、 私の中では非常に大きなポイントでした。

『命と向き合うデザイン』 

 affordance

デザインに関係していると、 affordance はちょこちょこ話題に上ります。 して、その意味はと言いますと、 「モノが身体に対して提供する価値」 などと書かれていますが、 なかなか伝わりません。 つまり、どういうことなのでしょう。 自然物であれ、人工物であれ、 環境にあるモノは全て、 知覚者に対して情報を提供している。 それは、 知覚者の主観によって構成されるのではなく、 環境に実在する性質である。 ということ。 よく例に出されるのは、 椅子は支えることをアフォードする、 だから座ることができる。 とか、 ドアノブは掴んで回すことをアフォードする、 などなど。 例を出すと伝わりそうです。 が、しかし、 これだけで考えると、 一番大切な部分を見逃しがちです。 これらの例で挙げた内容、 「基準」は何でしょう? つまり、 「誰が」座れそうだと知覚するのか 「誰が」掴んで回せそうだと知覚するのか。 そう、それは例えば私、例えばあなた。 文字通り、知覚者です。 では、知覚者は、 何を「基準」にして、 上述のように認識するのでしょうか? それは勿論、 自分自身の身体です。 この椅子は「自分の体重を支えることができる」 このドアノブは「自分が掴んで回すことができる」 これが最も基本にある捉え方です。 注意しなければいけないのは、 自分自身が基準であっても、 主観によって構成されるモノではありません。 例えば、 食べ物を見たときに、 お腹が空いていても、 お腹が一杯でも、 食べられるモノが 「食べられる」という性質を失うことはありません。 affordanceとは、 知覚者が環境から受け取る性質 affordanceがデザインする上で重要な点は、 ココにあります。 デザイナーが知覚するaffordanceではなく、 ユーザー(知覚者)が知覚するaffordanceを、 考えなければいけないということです。

『命と向き合うデザイン』 

 無を有に置換

言葉 と スケッチ の話に戻ります。 言葉 と スケッチ そもそも、 デザインにおけるスケッチとは、 トレーニングでない限り、 「見えていないモノ」を描く ことになります。 見えていないモノを描くということは、 同じものを見ていない状態 です。 その状態では、 言語でいうところのlangueが必要です。 しかし、 ここで言う「見えていないモノ」とは、 「この世にはまだ無いモノ」ですから、 難易度が高くなります。 「無い」モノを伝えるには、 どうすれば良いのでしょうか。 「有る」モノを使って、 類推させることができます。 最も簡単な方法の一つに、 体を使う方法があります。 つまり、 自分・相手の体を基準として、 モノを認識することです。 モノが身体に対して提供する価値、 のことを、学術的に、 「affordance」と言います。 AFFORDANCE