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4月, 2011の投稿を表示しています

『自分と向き合うデザイン』

 幕引き

大変お世話になった方の幕を引く役の一端を、 担わせていただきました。 大変に寂しい気持ちになることですが、 それでも、 恩を受けた者の役目として、 果たしていかなければいけないことです。 人は一人では生きていけない、 という高尚な意味ではなく、 本当に単純に、 人は様々な人と関わって生きていきます。 教えを受ける、というものから、 ランチをつくってもらう、というものまで、 本当に様々なかたちで、 様々な人たちと。 そして、自分が一番年長にならない限りは、 常に誰かの幕を引く役を担う可能性を持っています。 その時に、喜びの笑顔と喜びの涙の中で 送り・送られる、 そんな素敵な場面をつくっていけるような人間になりたい。

『自分と向き合うデザイン』

 やるべき事

粛々と、今、目の前にあることをやります。 やるべき事は沢山ある。 一つ一つ、ただ粛々と。

『自分と向き合うデザイン』

 人の器

私と入れ替わりで、 学長が替わられました。 入学式の今日、 辞められた学長がお越しになり、 ひょんなことからお食事の席に 同席させていただくことに。 とっても楽しい時間でした。 最大でも7人という同席者。 この時間を満喫するには十分の人数でしょう。 人の大きさ、 それを感じ入りました。 ありがとうございます。 その色々な大きさがある、 それを感じられるだけで、 今の私には大きな意味がある。

『自分と向き合うデザイン』

 不思議なIdentify

先月末、友人の結婚式がありました。 大変素敵なお式で、お招きいただいた私の方が、 温かい気持ちになりました。 式の当日・前日は、大学の時の友人達10人ほどと、 一緒に過ごすことができたのですが、 その時に撮られた写真を最近見てみました。 皆、本当に良い顔で写っており、 ありがたいなぁ、と友人への感謝の気持ちを抱きつつ、 ぽちっ、ぽちっ、とページを捲っていく中で、 何か、今までとは違う感情が心の中で広がっていきました。 これ、自分か? 私って、こんな顔をしていたのか? という、不思議なidentifyが、 自分の中でなされました。 正直、写真は苦手です。 笑えと言われて笑えるか?!といつも思ってしまいます。 しかし、それと同時に、 いつでも自然な笑顔をつくれることも、また、 社会的にとても意味のあることだということは、 わかっているつもりです。 写真を撮られる時に、うまく笑えない、 と、感じているため、ますます、写真が苦手になって。。。 ある種悪循環だとわかっていても、 なかなか克服できるものでもありませんでした。 ただ、今回の写真を見た時に、 何か、心の中の方で素直に、 「あぁ、私はこんな顔をしているんだな、今」、 ということが、スッと落ちた気がしました。 なんでしょう。 気のおけない友人達と一緒の時の顔を、 客観的に見ることができたからでしょうか。 何か、今まで蟠っていたモノが、 少しだけ流れていった気がしました。 以前、identityの話を少し書きましたが、 自分が、自分を、どのように見ているのか、 ということも、とても大切な事です。 それは、社会から自分がどう見えているか、 ということにつながります。 そして、社会に対して、自分をどう見せていくか、 ということにつながります。 いくか、「こう見せたい」と思っても、 そのように他人の目に映るかどうかは別問題です。 気のおけない人たちの中にいる自分。 それはある意味、肩の力の抜けた、 自分の本当の姿なのかな、と感じました。

『自分と向き合うデザイン』

 節電を思う

久しぶりに、夜道が暗いと感じました。 街頭が無く、車が通らないだけなのですが、 本当に暗い。 びっくりするくらい暗い。 世の中って自然だとこんなに暗くなるんだ、と、 改めて認識させてくれるくらい、 本当に真っ暗になるものです。 田舎育ちの私にとって、 夜、暗くなる、という現象は、 極めて自然で、当たり前の事だったはずですが、 名古屋・川崎・大阪と移り住んでいるうちに、 そんな当たり前の事も忘れてしまっていたようです。 人間などの生物には、 体内時計と呼ばれる、時刻を認識する機能があります。 人間の体内時計の一日はおよそ25時間と言われており、 普通に考えれば、 1時間/1日、のペースでずれていってしまいそうです。 でも、実際にはそんな風にはなりません。 なぜでしょう。 答えは、朝日にあるそうです。 朝日を浴びることでそこから一日が始まる、と、 身体が認識し、誤差を修正するため、 規則正しい生活が送れるのだそうです。 そう、逆に言えば、 きちんと朝日を浴びないと、 一日のリズムはどんどん狂っていくことになります。 今回の節電を受け、 世の中は、これまで以上に電力を意識するようになりました。 そこにかけている情けは、 きっと、被災地へ向かい、 環境へ向かい、 自然に向かい、 自分に還ってくるのだと思います。 夜勤で働くことに意義のある職種も多いため、 必ずしも夜中の電力をカットすることが 良いわけではありませんが、 体内時計のことなどちょっと思い出しながら、 朝日を浴びるために夜早く寝る、 そんな風に考えるのも良いのかも知れません。

『自分と向き合うデザイン』

 食べられる餅

日頃の行動から、想像力を働かせることができます。 「今、○○をやったら、これは××になるから、  その時に△△できるように□□を用意しておこう。」 という具合に。 想像力、という言い方をすると不思議なモノに聞こえますが、 例えば、将棋やチェス・囲碁などでは、 如何に相手の手筋を読むかが、 勝敗を分けるポイントになったりします。 手を読むとはいっても、 勿論、あくまでも想像の中でしかありません。 ただそれは、当たるも八卦当たらぬも八卦、 というような、運任せなものでは無く、 様々なデータを補完することによって、 より、精度を高めて行くことができるものです。 過去の対戦の流れ、 得意な手筋、 相手の性格、 今の気分・・・などなのでしょうか。 実際の棋士さんに伺わないとわかりませんが、 素人の私が考えても、 考えられること、は沢山あります。 将棋では、 表現される舞台は将棋盤の上、 表現するモノは将棋の駒、と決まっています。 しかし、現実の社会はどうでしょうか。 勿論そんな風には決まっていません。 考えるべき要因・要素も、 溢れかえっています。 もし、機器に頼るのなら所謂スーパーコンピュータ、 などと呼ばれるモノが登場するところです。 人間が行う場合は、どこかで線引きをする必要があります。 考えるべき対象と、 考えるべき範囲を、制限しなければいけません。 人間は考える事ができる生き物なので、 沢山のことを考える事は可能です。 しかし、デザインで言うところの、 想像力は、 考えた結果を行動に移さなければ意味がないのです。 考えただけで終わってしまうのなら、 それは結局何も残さないことになります。 創造につながらない想像は、 絵に描いた餅です。 デザインは絵に描いた餅を食べられるようにすることです。

『自分と向き合うデザイン』

 儀式

これからは、自分自身の時事的なものも絡めながら 書いていきます。 昨日、辞令を頂戴しました。 以前、会社に勤めた時は、 同期入社が800人という事だったので、 勿論一人一人いただくなどということはありませんでした。 今回改めて手渡しで辞令を受け取り、 やはりちょっと違った感慨を受けました。 権威とは常に、 形式とともにあります。 権威を象徴するのに最も重要なのは、 儀式化された形式を常に守り通すことです。 逆に言えば、最初はただの形式でしかなかったことも、 時間が経つと同時に、 伝統や儀式と呼ばれるようになり、 本来の意味・内容とは異なる、 形式が存在することに依拠した内容を有するようになります。 権威主義、などという表現は 多くの場合、ネガティブな響きとして認識されていますが、 権威を象徴するところまで突き詰められ、 まもられてきた形式は、 その内容とともに大きな価値を生みます。

『自分と向き合うデザイン』

 想像を超えた現実

新年度を迎え、改めてブログをはじめたいと思います。 兎に角、書いていきます。 今日、4月1日、新年度が始まりました。 日本における4月とは、 桜をはじめとした様々な草花が咲きほこり、 日一日と暖かみを増していく日差しを、 肌で感じられるような、そんな季節です。 しかし、今年の4月は、そんな季節感とは裏腹に、 なんと苦しみの中から始まる人が多いことでしょうか。 様々な事態を想像して、 そのために必要なモノを創造すること。 それがデザインに求められていることです。 なぜ、想像して生み出さなければいけないのか。 むしろ、多くのデザイン方法論では、 実際に試すことを強調しています。 しかし、本当に必要とされているモノとは、 そんなに簡単に試すことができるようなモノ、 なのでしょうか。 例えば、宇宙空間で使用するモノ、 例えば、両腕が完全に麻痺した状態で使用するモノ、 いずれも、重要度は高そうですが、 いずれも、容易には試すことができません。 今回の地震による津波、 津波による原発事故、 いずれも想像はされていたようです。 でも、その「想像を遙かに超えていた」、 という言葉を何度聞いたでしょう。 それほど、現実的に何かを想像いていくことは 難しいのです。 デザインは、その想像力から生まれます。 発想とは想像が発せられることです。 より、現実的に問題を想像し、 より、理想的に解答を創造すること、 それがデザインの使命です。